2010-03-20

内と外(6)

内と外に関してほぼ40年ぶりに再読した「時間と自由」(「意識に直接与えられたものについての試論」アンリ・ベルグソン)の記述に改めてこの問題が中心的問題として論じられていることを発見した。
強度と多様性に関して論じている箇所から引用。
強度の概念は、研究されているのが外的な原因を表象するところの意識状態であるか、それともそれ自体で自足した意識状態であるかによって、二重の相のもとにその姿を現す、と。前者の場合、強度の知覚は、原因の大きさを結果の何らかの質によっていわば算定することに存していて、スコットランド学派のひとたちの言葉で言うと、これは習得的知覚である。後者の場合、われわれはある根本的状態の只中に見分けられる単純な心理的諸事象の多様性の大小を強度と呼ぶ。これはもはや習得的知覚ではなく、錯雑な知覚である。もっとも、知覚というこの語の二つの意味はきわめてしばしば相互に浸透し合っている。なぜなら、一方ではある情動や努力が含むより単純な状態は概して表象的であるし、また表象的状態の大半は同時に情緒的でもあって、それ自身のうちに、基礎的な心理的諸事象の多様性を包摂しているからである。つまり、強度の観念は二つの流れの合流点に位置しているのだ。すなわち、外部から外延的な大きさの観念をわれわれにもたらす流れと、内的多様性のイメージを意識の深みに迎えに行って、それを表面へと導く流れとの合流点に。(同書83ページ)
また、心理的決定論を批判した中では次のように述べている。
ある姿勢の表象は意識の中では達せられるべき別の目的のイメージに結びついていると言うべきではなく、むしろ、幾何学的には同一の姿勢が当人の意識に対しては、表象される目的に応じて様々な形で現れるというべきだろう。連合主義の誤りは、遂行されるべき行為から質的な要素をまず除去したうえで、そこから幾何学的で非人格的なもののみを保持しようとした点にある。その場合、このように脱色された行為の観念を他の多くの観念から区別するために、何らかの種差をそれに連合せざるをえなくなったのだ。ただし、この連合は私の精神を研究するところの連合主義哲学者の産物であって、私の精神そのものの産物ではない。(180ぺージ)
連合主義者は自我を数々の意識的事象、感覚、感情、観念の寄せ集めへと還元する。しかし、連合主義者がこうした多様な状態のうちに、それらの名が表現するより以上のものを見ないとすれば、また、これらの状態の非人格的な相しか保持しないのであれば、たとえ彼がこれらの状態を無際限に併置したところで、幻影としての自我、空間のうちに投射された自我の影以外のものを手にすることはできないだろう。仮に連合主義者が、これとは反対に、これらの心理的状態を、それが一定の人格においてまとう特殊な色合い、-それは他のすべての状態を反映することで各々の状態に到来するーとともに捉えるならば、その際には当の人格を再構成するために複数の意識的事象を連合する必要はまったくない。というのも人格は、それを選ぶ術を知ってさえいれば、これらの意識的事象のなかのひとつのうちに全面的に存しているからだ。そして、この内的状態の外的顕現こそ、まさに自由行為と呼ばれるものであろう。(185ページ)
この翻訳では180ページの脱色という表現に思わずうなった。まさに脱色だ。